プロ野球の監督とは



プロ野球の監督とは。
私はプロ11年間のキャリアで、5球団を経験しましたが、これだけの球団を渡りあるけるのもなかなか出来る経験ではない。
全ては自分の責任なんですけどね、今思えばいい思い出です。
本来、生え抜きとして残るのが一番だろうが、違う球団を経験するのは、それはそれで面白いものでもある。
なんせ、各球団で特色はある。

また指導者も然りだ。
皆、個性があり、指導方針も全然違う。これも監督を含めて色々な人と出会うことが出来た。


監督。
プロ野球の監督は日本中で12人しか座ることの出来ない貴重で誇らしい椅子である。
私が最初に出会った監督は、入団した大洋時代の須藤豊さんだ。

彼はそれまでは長らく巨人の二軍監督を務めており、当時黄金時代の巨人軍の主力を育てたことが評価されて、他球団だが初めての一軍監督のポストを得た人だ。

若手の育成がうまいだけに、接していて、非常に話がうまく、選手を乗せるのがうまい人だった。弱いチームだったこともあり、メンバーも思い切って若手に切り替えて、リスクを厭わない姿勢が、尚更若手の躍進につながったと思う。

プロの監督というより、学校の先生のようで、野球だけにとらわれず、人生とは、人間としてなすべきことを教えてくれたように思う。

須藤さんによって大きく飛躍した選手がたくさん輩出された。
投手で言えば、野村弘樹、佐々木主浩、先日亡くなった盛田幸妃もその一人だろう。

野手で言えば捕手の谷繁、石井琢朗もそうだ。彼らは須藤さんの辞任後、もしくは数年後に花開くことになったが、当時における猛練習と教えが、礎になったと思う。

そしてみんなに共通しているのは、長く現役をできたことだ。これは若い時の練習の財産のお陰と言っていいだろう。それぐらい、とにかく当時の練習はハードだった。

今だから言えることだが、若手の有望な選手は12月も24日まで秘密裏に山形で強制練習をさせられていた。
そして1月はキャンプ地に早乗り。1月の10日にはキャンプ地の沖縄に入っていた。

今なら絶対に選手会でアウトだろう。しかし当時、僕らも選手会を通じて、中止のお願いをしたが、当時のチームの選手会の会長に「お前らにとって有難いことだ」と一蹴されてしまった。
今思えば、それも確かにそうではあるが、、、

とにかく一年中野球漬けだった。それが良い面に出ることもあれば、悪い方に出ることもある。

その弊害の一つが当時のエースであった中山投手の(少女わいせつ)事件でもある。あれは、逃げ道の無くなった中山投手が精神のバランスを崩して起こしてしまった事件でもある。

庇いようのない事件であることは間違いない上で言わしてもらえば、当時の中山選手を知るものは、誰も彼を非難することはなかった。

おそらく精神をきたしたんだとうと同情していた。

それぐらい須藤さんは高校の後輩である中山には愛情を持って厳しく当たった。彼は当時からエース格で、大人だった。
性格的に一番前で旗をふるよりも後ろから付いてくるようなタイプでももあった。

しかし須藤さんは彼に期待している分、愛情をかけすぎた故に、彼を追い詰めてしまったのだろう。完全に裏目に出てしまったのだ。

今でも思い出す。プロ2年目の12月24日のスポーツ紙の担当記者からの電話を。(続く)
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Author:フェニックス
元プロ野球選手のブログ。
現在、セカンドキャリアとしてプロスポーツ選手のエージェントを務める中で感じたことを綴っています。自分の選手としての経験と、エージェントして現場に身近にいる人間のブログ。

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